今月11日に豊洲新市場が開場し、6日に閉場した築地市場の解体作業がはじまった。
現地では、1万匹ともいわれるネズミの駆除作業に追われているという。
ボクは、築地という街が苦手だ。
築地に恨みはないけれど、苦い思い出が蘇ってくるので、よっぽどのことがない限り近づこうとも思わない。
それでも毎日通った場所なので、何も感じないわけではない。
寂しいような嬉しいような、なんとも複雑な心境だ。
今日はそんな築地の苦い思ひ出をつらつらと。
築地市場の苦い思ひ出
ボクが築地に住んでいたのは、もうかれこれ4年前のことだ。
当時28歳。
大学を中退し、人生に挫折して疲れ切っていたボクは、これまで経験したことがないような、何かまったく新しいことをやりたいと考えるようになっていた。
そして、(きっと当時読んでいた本のうちの一冊に影響されたのだと思うが)一人前になるまで10年掛かるといわれる鮨職人の世界に憧れ、勢いよく飛び込んだ。
料理経験ゼロのアラサー風情が、いきなり頭を丸めてミシュラン三ツ星店の小僧になったのだから、我ながらなかなかぶっとんでいると思う。
兄弟子と一緒に築地市場から5分ほどの場所にある寮に住みながら、毎朝6時には起きて自転車で市場へ行き、親方の仕入れに同行して、仕入れた魚を銀座にある店まで運ぶ。
そんな生活を月曜日から土曜日まで、毎朝繰り返していた。
朝の築地場内市場は迷宮だ。
仕入れにきた人間と外国人観光客でごった返し異様な熱気を帯びた場内には、何ヶ月経っても慣れなかった。
どの通りにも間切した同じような店が延々と続き、一度迷い込んだら二度と出られないんじゃないかと思うくらい深い空間だ。
場内の外に出たら出たで、まるで暴走族の集会のように蠢くターレー(小型運搬車)の集団に轢かれそうになりながら市場をあとにする。
たまに親方が「朝飯を買って帰れ」とこづかいをくれると、吉野家1号店で牛丼の並を買うのが定番だった。
それから親方は銀座の高級店へ食事に連れていってくれたりもして、怖いけれどよく可愛がってくださった。
とにかく毎日が辛かった
そんな店をたったの4ヶ月で辞めてしまったのは、とにかく毎日が辛かったからだ。
朝6時から夜11時までぶっ通しで働き、休みは日曜のみ。
親方からも女将さんからも兄弟子からも一日中怒鳴られ続ける。
いわゆるブラック企業にお勤めの人たちがどれくらい働いているのかは知らないが、兄弟子にいわせればこんな生活は鮨職人の世界では全然ぬるくて甘い環境らしかった。
それから”まかない”。
「料理なんてできなくても鮨は握れるだろう」と高をくくっていたが、考えが甘すぎた。
入ってすぐまかないを任されるようになり、休日に料理教室にまで通いながらあれこれ作ってはみたものの、ボクの作ったマズい料理が親方の口に運ばれることはほとんど奇跡に近かった。
寮での共同生活も、しんどかった。
気心の知れた友人ならともかく、年下の兄弟子と店でも家でも四六時中一緒に過ごす。
自分一人ではとても借りられないような2LDKの高級マンションに住まわせてもらったのはありがたかったが、プライベートな時間や空間が皆無な生活は、想像以上に神経をすり減らした。
唯一の休みである日曜日には、日頃のストレスを発散するかのように(小僧の給料なんてコンビニバイトより安いのに)1回2〜3万する銀座の高級鮨を食べ歩き、しだいに貯金も尽きていった。
「職人の世界は厳しい?上等だ!」と息巻いていた当時の自分をボコボコに殴ってやりたい。
こんな生活を10年も続けるなんて、ボクには到底できそうもない。
そして、絶望しながら働くこと数ヶ月。
ようやく夏を迎えようとする頃、張り詰めた緊張の糸はある日突然、プツンと切れてしまった。
昼の営業が終わってまかないを食べたあと、兄弟子に「ちょっと外の空気を吸ってくる」といい残して外出したボクは、そのまま当てもなく歩きつづけ、築地という街をあとにした。
それきり、二度と戻ってくることはなかった。
カラダと心が築地を許すとき
あれ以来、市場はもちろん、築地という街にすら足を踏み入れたことがない。
ずいぶん迷惑も掛けてしまったし、あのときのことを思い出すだけでも拒絶反応が出て体調が悪くなってしまう。
もはや市場はなくなってしまったけれど、ボクのカラダと心が築地という土地を許すには、もう少し時間が掛かりそうだ。