「読みたいことを、書けばいい。」想定ターゲットは自分

「読みたいことを、書けばいい」想定ターゲットは自分

ボクは自分が書いたブログの文章を読み返さない。

それは自分で書いた文章を読みたいと思わないからだ。

読んでもちっともワクワクしない。

理由はわかっている。

小銭稼ぎのために書いた文章は、自分で読んだってまるでおもしろくない。

もっと書きたいことがたくさんあったはずなのに、気づいたらSEOに迎合したお利口な文章しか書けなくなっていた。

いいかげんうんざりだ。

いっそ全部消してしまってイチから出直そうか。

本書を読んだせいでそんな考えがムクムクを膨れ上がり、発作的に新しくドメインを購入するほどどうしようもなく思い悩むことになってしまった。

田中泰延著『読みたいことを、書けばいい。

著者は早稲田卒で電通に24年間勤めたコピーライター・・・なんだ、ただのエリートか。

ビジネス書や自己啓発書が嫌いなところとか、古典が好きなところとか、余裕たっぷりな文章の書き方とか、コピーライターという人種のステレオタイプ。

しかしそういう人種がどうしようもなく羨ましく、妬ましく。無い物ねだりってやつだ。

ああ、そういえば似たような文章をブログで十数年書き続けている東進の今井宏先生も早稲田卒の電通出身だった。

中島らもなんかもおんなじだ。読んだあとはうんざりするのに、またしばらくすると読みたくてたまらなくなる中毒性がある。

田中氏は「青年失業家」を自称している。

3歳年下のサイバーエージェント社長 藤田晋氏がテレビで「青年実業家」と紹介されているのを見て、46歳の自分も青年と名乗っていいのだと感じたらしい。

街角のクリエイティブで書いた映画レビューが累計200万ページビューを超えるほどの人気を博した田中氏の、ダイヤモンド社今野良介氏の熱烈なラブレターによって実現した処女作。

本書での主張は一貫している。

自分が読んでおもしろいと思うものを書こう

読者なんて想定するな。

書いた文章を読んで喜ぶのは、まず自分自身である

読者(検索ユーザー)を想定して、読者のために文章を書くのが常識だという刷り込みを受けてきた人間にはちょっと刺激が強すぎる。

天使と悪魔がグルグル蠢いて心が苦しい。

こんなに苦しくなるのは、きっと心の深い部分では田中氏の言っていることが正しいと認識しているからなんだろう。

「事象と心象が交わるところに生まれるのが随筆」という定義を見失って映画を評論すると、事象寄りに振れてしまえば映画のあらすじばかり書く状態に陥るし、心象寄りだと感想だけ書いて終わってしまう。

自分が読んでおもしろいと思うことを書けばいいというと、自分語りばかりを書いてしまうオナニー野郎がいる。(つまりボクのことだが)

でもそれではいい文章は成立しない。

引用にもあるとおり、事象と心象が交わるところに生まれるのが随筆だ。

「随筆って何やねん?」

Web上で読まれている文章のほとんどが随筆だという前提でこの言葉は書かれている。

もっとわかりやすく書けば、

事象ばかり→WiKipedia
心象ばかり→小学生の読書感想文

つまり、ライターの考えなど全体の1%以下でよいし、その1%以下を伝えるためにあとの99%以上が要る。「物書きは調べることが9割9分5厘6毛」なのである。

とりわけ田中氏の調べることに対する姿勢は厳しい。

「WikipediaやWebで調べました」とか「Amazonで本を数冊買って調べました」なんてのは田中氏に言わせれば調べたうちに入らない。

一次情報に当たるために国立国会図書館に通い詰めて、はじめて「調べた」という。

司馬遼太郎は『竜馬がゆく』を書くときにトラック一台分の資料を集めたそうだが、面倒臭がらずにどれだけ本気で調べられるか、つまりその文章にどれだけ情熱を注げるかがいい文章の鍵を握っている。

この文章をあとから読み返しておもしろいと思うかどうかはわからないが、田中氏が読んできたオススメの本のリストは純粋に読みたいと思ったので、忘れないようにメモしておこう。

ジャン・クリストフ』 ロマン・ロラン
神曲』 ダンテ・アリギエーリ
資本論』 カール・マルクス
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 マックス ヴェーバー
坂の上の雲』 司馬遼太郎
美人論』 井上章一
狂気と王権』 井上章一
ローマ人の物語』塩野七生
輝ける闇』 『ベトナム戦記』 開高健
中島らもエッセイ・コレクション』 中島らも
狂気の沙汰も金次第』 筒井康隆

なお、それぞれのリンクはAmazonのアフィリエイトリンクになっているので、気になるものがあれば(なくても)どうぞ遠慮なく買ってください。

本書の教えに反して心象が9割9分5厘6毛の駄文になってしまった気がするが、ここまできたら最後まで自分語りをしてやろう。

冒頭の話に戻るのだけれど、小銭にまみれたブログでこのまま書き続けるのか、過去の自分を棄て去って新しいブログで1から出直すのか。

棄てるのは簡単だ。

だけどそれじゃ何も変わらない気がする。

ありとあらゆる仕事から逃げ出してきた今までの自分とまるで一緒だ。

Web上にゴミを撒き散らしてきたのもまた自分。

自分で撒き散らしたゴミを知らんぷりする大人が、まっとうな人格を持っているはずがない。

ゴミを回収して背負っていかなきゃ、きっといつまでたっても前に進めない。

きっとボクはまた明日からも、小銭稼ぎのためにWebにゴミを撒き散らす。

でもきっと、同じゴミでも今までよりは多少上質なゴミになるんじゃないかと期待しつつ、本書の書評を終えたいと思う。

・・・ところで上質なゴミとは?

» 田中泰延著『読みたいことを、書けばいい。』