by ニシムラケイイチ
文章力とは、自発的に生きた時間の結晶である
ふと、そんなことを考えた。
文章力というと、たとえば難しい漢字や表現を知っているとか、理路整然とした文章を書ける能力を思い浮かべがちだ。
Webで文章を書く力であれば、キーワードを分析してSEOに有利な文章を書ける能力も必要だ。
あるいは大衆を引きつける独創的なコピーが書ける力も、文章力というのかもしれない。
しかし、いくら枝葉末節の技術を磨いても、書き手の人間が薄いと、読み手の心に響く文章を書き続けることは難しい。
“自発的に生きる”
それは別に働き方の問題ではない。
フリーランスだろうと会社員だろうと、自発的に生きている人の時間は濃い。
趣味だろうと遊びだろうと、自発的な時間はあっという間に過ぎ去っていく。
反対に、受け身でやり過ごす時間は、果てしなく、長い。
“生きる”対象は、何も目の前に見えている世界に限らない。
自発的に思考の世界を生きれば、想像という名の文章力が結晶する。
なぜ突然こんなことを考えたのかといえば、文章を書いていて、自分の持つ結晶の儚さに気づいてしまったからだ。
いや、”気づいてしまった”というのは嘘だ。
ずっと前から、気づいていた。
ただ気づかない振りをしていただけ。
ある人が言った。
作家は人に残された最後の職業で、本当になろうと思えばいつでもなれるので、とりあえず今はほかのことに目を向けたほうがいいですよ。
・・・「作家への道」は作家の数だけバラエティがあるが、作家から政治家になった人がわずかにいるだけで、その逆はほとんどない。
・・・作家の条件とはただ1つ、社会に対し、あるいは特定の誰かに対し、伝える必要と価値のある情報を持っているかどうかだ。伝える必要と価値のある情報を持っていて、もう残された生き方は作家しかない、そう思ったときに、作家になればいい。(引用:「作家」の職業解説【13歳のハローワーク】)
なるほど手厳しいが、反論の言葉がまるで出てこない。
学生時代、作品と作家を安易に結びつける論を展開して教官に厳しく責められたのは苦い記憶だけれど、やはり文章とその書き手の人生は切っても切れないような気がする。
自分には、何があるだろうか。
私は”伝える必要と価値のある情報”を持っているだろうか。
以前テレビで見た、大道芸をしながら路上生活をするホームレスのほうが、よっぽど物書きに向いているんじゃないか。
故郷から抱えてきた、夢と希望が詰まった小さな小さな結晶は、上京して10年、どれくらい育っただろうか。
決して誰かに説いているわけではない。
私は、そんな大層な人間ではない。
ただ、自分という人間の底の浅さを猛烈に嘆いているのである。