僕は、学校も仕事も恋愛も、幾度となくドロップアウトしてきた。

自分には、何か人と違う重大な欠陥があるのではないのかと思い悩んだことも、一度や二度ではない。

ただこれまでの人生を思い返すに、自分が人よりも特別頭が悪いとか、コミュニケーションが下手だとか、(もし仮にそうだったとしても)そんなことはたいした問題ではないと感じている。

コミュニケーションが下手な人のことをコミュ障などと呼ぶが、もし僕がコミュ障なのだとしたら、その原因は120%自分の中にある。

僕の知る限り、コミュ障には2つのタイプがあるように思う。

ひとつは、コミュニケーションという行為そのものが苦痛でそれを避けようとするタイプ。

外的要因によるコミュ障だ。

もうひとつは、コミュニケーションは好きだが自分に執着するために心を閉ざしてしまうタイプ。

内的要因によるコミュ障。

よくよく考えてみれば、僕は人前で話したり、人と関わることが好きだ。

学生時代には、毎日のように塾の教壇に立ったり、サークルを作って他大学との交流イベントを企画していた。

バイトもいろいろやったが、やはり接客業が多かった。

社会人になってからも、営業マンとしてたくさんのお客さんに自社の商品の魅力を伝えてきた。

ではなぜ僕はコニュ障なのか。人と深くつながることができないのか。

一番の原因は、自己評価の低さにある。

こうありたいと願う理想の自分と、現実の自分がひどく乖離し、現実の自分を醜悪なものとして嫌悪してしまう。

他者を楽しませることに執着しているうちはいいのだ。

しかし、意識が自分の方に向かうようになった瞬間、人と会うことが億劫になり、自分を見られることが嫌で嫌で堪らなくなり、心のドアを閉ざしてしまう。

思い返せば、友人との付き合いも、職場でのそれも、恋人も家族も、およそすべての人間関係の崩壊は、自分の中にあった。

何度もドアをノックしてくれる人たちを、拒絶しつづけた。

現代の若者は根性がないと言う。

根性がないとは詰まるところ、他者に対する愛が足りないと同義なのだと思う。

衣食住が満たされ、アメリカナイズされた個人主義の中で、決して交わり合うことのない自分中心の世界の集合が、現代という混沌を形成している。

愛のない人間があたかも成功者かのようにもてはやされ、真に愛のある人間が十分に報われない世界が、現代である。

僕は、九州の片田舎で育ったことを心底有り難く感じている。

田舎には、満員電車で押し合い圧し合うことのない愛の世界がまだわずかに残っている。

幼少期を愛の世界で生きたからこそ、今こうやって愛について考える機会を得ることができた。

僕の母は、周囲からお節介と言われるほど、大変な世話焼きだ。

道に迷っている人がいれば、いの一番に駆け寄る。

電車の車内で泣く赤ん坊を見かければ、恥ずかしげもなくあやす。

母は、どこまでも愛の人だ。

子供のころは気が付かなかった。

僕がはじめて母の愛を感じたのは、大人になってから久しぶりに実家に帰り、家族で買い物に行ったときのことだ。

アーケードを歩いていると、ぐっと腰の曲がった老婆が見えた。デパートの地下から地上へと伸びる階段を、大きな紙袋を抱えながら、ゆっくりと登ろうとしていた。

周囲の人間はみな(僕や家族も含め)そのことに気づいていたはずだ。

僕が「助けたほうがいいよな」と思いつつ躊躇していると、母がサッと階段を駆け下り、老婆に声を掛け一緒に登り始めた。

そんな母の姿を見ていたら、涙が止まらなくなってしまった。

お節介な母のことをうっとおしく思っていた自分がどうしようもなく憎らしくなった。

誰よりも愛を持つ人間に育てられた僕は、いつのまにか誰よりも愛のない人間になってしまった。

愛は、誰の心にも等しく宿っている。

生まれたての赤ん坊の無垢な笑顔は、愛の結晶だ。

愛のない人間などいない。

ではなぜ、人は愛を見失うのか。

それはきっと、みな今を生きることに夢中だからなのであろう。

日本がまだ貧しかった時代には、みな明日のために生きていた。

実家に住んでいたころ、学校から帰ると、よく玄関の前に野菜や果物が積まれていた。

近所の人が、自分が作った農作物をわけてくれるのだ。

田舎では、自宅での宴会も盛んだ。

持ち回りで宴会を開き、食事と酒で町の人々をもてなす。

そうやってみなが分かち合い、ひとつの世間を形成している。

互いに支えあい、共に明日を生きるのが古き良き日本の世間であり、愛のある世界なのだ。

田舎が良くて、都会が悪いという話ではない。

都会はいい。華やかで、田舎にはない刺激がある。

ヨコ軸の問題ではない。タテ軸の問題だ。

現代の社会は、個人主義が行き過ぎた結果、人々が今を生きること、つまり自分の時間を生きることに夢中で、共に明日を生きるという感覚が希薄になり、豊かさと引き換えに愛のある世界を失いつつあるのかもしれない。

会社に頼らず、一人で生きていく力がモテはされる時代。

副業や独立が推奨される時代。

それは、本当に正しいのだろうか。

生産性やスピードを追い求めることはそんなに重要なことだろうか。

誰にも止めることのできない動く歩道の上で踊らされているだけではないのか。

なぜ人は行き急ぐのか。

個人主義的資本経済の先には、一体どんな世界が待っているだろうか。

僕は、愛の人になりたい。

自分に執着しない。

自分のことなど、構う必要はない。

自分の時間など、この世には存在しない。

誰かののために生きる時間こそ、自分という人間が最も輝く瞬間だ。

僕は、愛の人になりたい。