ブログは敬体で書こう!常体をオススメしない3つの理由

こんにちは!西村恵一です。

実は、このブログで常体の文章を書くのはやめにしようと思っています。

ブログを常体(だ、である)で書くか、敬体(です、ます)で書くかについてはこれまでずっと悩んできました。

「そんなのどっちでもいいじゃん!」

という方も多いと思いますが、そんな些細な問題にボクはブログ開設当初から何年も頭を悩ませてきて、結果当ブログは敬体文の記事と常体文の記事が混在する無秩序な状態に陥っています。

知人にアドバイスを求めたり、ほかの方のブログもたくさん読んだのですが、コレという答えにたどり着くことはできませんでした。

そこで今回はあらためて、ブログを常体文で書くデメリット(敬体のメリット)をまとめます。

あくまでボク個人の考えではありますが、常体と敬体で迷っているあなたに参考になれば嬉しいです。

ブログを常体(だ、である)で書く3つのデメリット

時代の流れに逆行している

文章の形式としては、敬体と常体どちらで書かれた文章もあります。

新聞や経済誌、論文などは常体が基本。

ただ全体として、(統計データがないので正確にはわかりませんが)常体の文は減少傾向にあるように思います。

活字離れが進む現代では、常体の文にとっつきづらい印象を受ける人も多いようです。

本に関しても、小説を除いてはどちらかといえば敬体で書くのが一般的ですよね。

ブログの文章も、体感的に8割〜9割くらいの方は敬体で書いている印象です。

使っている人が少ないからこそ、あえて常体のほうが目立つんじゃないかという思惑もあったんですよ。

ニッチ戦略でいこうと。

でも気づいちゃったんですよね。

常体はニッチじゃないなって。

ニッチって未来志向なんです。

経済分野では、まだ既存企業が進出していない小さな市場に対して使われますよね。

しかし常体で書かれた文章は、市場に例えるとすでに成熟しきって価値が確定したレッドオーシャン。

しかもどちらかといえば衰退傾向にある。

ニッチと衰退は似ているようで全然違います。

たとえば当ブログでもよく取り上げているChromebookはニッチです。

これから成長する(かもしれない)未来志向の市場ですから。

でも常体文は違う。

もちろん常体の文章で活躍しているブロガーさんだっていらっしゃいます。

それは認めます。

だけど時代の流れに逆らって意固地に常体を使うのは、沈みゆく船に自ら乗船するようなものではないでしょうか。

読者との距離が遠くなる

常体で文章を書くことのメリットのひとつに、権威性(カリスマ性)があります。

常体はしばしば断定的で強くて偉そうなイメージがあるので、言葉に説得力を持たせることができるんです。

反面、書き手と読み手の心理的な距離が遠くなるきらいがあります。

ですから純粋な読み物としてのブログであれば、常体で書いてもいいかもしれません。

しかしブログをビジネスやコミュニケーションのツールとして活用する場合には、敬体で書いたほうが読み手に親近感が生まれやすくなるんですよね。

ブログでモノを売ったりアフィリエイトをするときにも、語りかけるような話し言葉に近い文体を使ったほうが売れやすいです。

バズ部のように常体文でのマーケティングの成功事例もあるので絶対にダメというわけではありませんが、現代では一部のカリスマにのみ許された特権のような気がします。

凡人が中途半端にやると「偉そう」と思われたり敵を作りやすいリスクがあることは覚悟しておきましょう。

継続しにくい

3つ目のデメリットはブログを継続しにくいこと。

コレに関しては人によるのかなと。

あくまで自分自身のことを分析したときに、常体のほうが継続しづらくなるように感じました。

理由は、同じテーマでも常体で書くと文章が個人的で主観的な方向へ偏りやすいからです。

ボク、子供のころから日記というものが続いた試しがないんですよね。

毎年のようにスケジュール帳や日記帳を買うんですが、たいてい最初の数ページしか使いません。

3年連用日記みたいな重厚な日記帳を購入して1ヶ月も経たずに放置したのも1度や2度ではなく。

要するに、自分のための記録を継続するってことが極めて苦手な質なんです。

記録に限らず、料理は嫌いじゃないけど自分のための自炊は面倒だし、自分に甘いところもある。

ブログ(Blog)はもともとウェブログ(Web log)と呼ばれる記録媒体だったわけですから、個人的な記録を残すために使うのももちろんアリです。

しかしボク自身に関していえば、やっぱり文章を書く仕事で飯を食っていきたいという想いが強く、実際にブログはそれを可能にしてくれるパワフルなツールなんですよね。

そしてブログを通して価値を提供すればするほど(=誰かの役に立てば立つほど)、物書きとしての仕事が現実味を帯びてきます。

読み手のことを第一に考える読者ファーストを貫くなら、敬体や話し言葉に近い柔らかい文章をほうが親切だし、読み手の存在を意識しながら書くことでモチベーションが上がり、継続力を高めることができるんじゃないかと。

バカだと思われたくない

ビジネス的な視点では敬体のほうがベターなのはわかりきっているはずなのに、それでもボクは定期的に常体でゴリッとした文章を書きたくなってしまいます。

どうしてなのか?

理由はいくつかあると思います。

敬体の文章をまどろっこしいと感じてしまうのは事実です。

常体のほうがいいたいことを簡潔に伝えることができる。

しかしそれはあくまで表面的な理由に過ぎません。

もっと大きなところでいえば、ひとつには知性への憧れ。

古い小説や文学、知的な評論などが好きで、これまで読んできた文章も圧倒的に常体のほうが多いので、自分もそういう教養主義的な頭の良さげな文章を書きたいという願望があります。

常体の文章って、頭が良さそうに見えますからね。

要するにバカだと思われなくない。

裏を返せば、自分(の知性)に自信がないんでしょう。

大げさにいえば敬体を使うことで何か大切なモノを失ってしまうような、自分が自分でなくなってしまうような感覚に陥ることがあります。

自分は特別な人間だと思いたい厨二病的な思考にも近いかもしれない。

自分はバカなのかもしれないという怖れがあるから、頭の良さそうな文章で自分を守ろうとしているのかもしれません。

別の言葉で表現すると、見栄ですね。

人からよく見られたいという見栄。

大好きなドラマ『リッチマン、プアウーマン』の中で、日向徹はこんな言葉を残しています。

「自分が凄いことをなぜ人に認めさせなければいけないのか。」

正論すぎる・・・。

ボクは、自分の自慢話ばかりする痛いオジサンには絶対になりたくないです。

そのためには、自分との約束を守り、嘘をつかず、自分という人間への信頼感をコツコツと高めていくことが大切だと思うわけです。

あれ?何の話でしたっけ?

ともかく、当ブログを読んでくださる読者さんへの感謝の気持ちを忘れずに、自分の書きたいことをどんどん発信していこうと思う次第です。

常体の文章については息抜きに別のプラットフォームで書くかもしれません。